The Cuckoo's Nest

幽遊自躑に暮らしております。https://twitter.com/Wintermoth1934

クリスマスにこのブログを始める

友人からこの令和の世にブログを始めるなど時代錯誤も甚だしい単に自己顕示欲を満たすだけなら他の方法が幾らでもあるだろうと言われたものの私は天邪鬼なのでこうしてブログを始めた。

いきなり長々と書くのも興醒めするし何より今日はよく冷えて手が悴む、さらっと書いて終わりたい。

 

まず何故ブログを始めようと思ったのかだけ自分のためにも書き残す。

無論このようなことには複合的な要因があるけれど代表とするなら月並みではあるが、自己顕示欲の発散、そして生きた痕跡を残したいと思ったからだ。

 

すでに読者はお気付きかと思うが私は幼少の時分より人一倍自己顕示欲が強かった気がする。私の自己顕示欲はずっとケージに入れられ爪を立ててミャーミャー鳴き続けてきた。たまに餌を持ってやって来る私の捻くれた精神に外は危険でここは安全だよと言われじっと耐え忍んできた。しかし私も人として成熟したとは畏れ多くて言えないものの昔よりかは幾分かマシになった。そこでこうして自己顕示欲くんを自由に出歩かせてやることにしたのだ。

 

次に生きた痕跡とやらについてだが、なんだかそんな語を使うと仰々しいが別に大したことではない。

三島由紀夫も語っていたが、明日にもいや今日にでも、何か予期せぬことで突然死んでしまうんじゃないかと妄想する癖が私にはある。普通の人はこういうことは考えないようで、三島由紀夫をはじめ戦争を経験した人たちがそういう考えを生じさせやすいのは理屈としてよく分かるけど、私に何故このような夢想が生じるのか不明だ。しかし今から1分後に心臓発作で、あるいは3分後にジャンボジェットが家に落ちてきて絶命してしまう可能性は絶対にないとは言い切れず、これは生の本質、延いては神の本質に他ならないと私は思う。

私はこれまで好き勝手に生きてきたので、突然今日死んでも程々に満足してヤコブの梯子を登れそうなものだが、登る途中でそういえばと手を叩き、そうだ世界の人たちに自分の考えてることを発信したことが一度もなかった、まだ死にたくないなどと急に思い立って階段を駆け降りるようでは私も神仏も困るだろう。そんな風に遺書のつもりで書いてみるつもりだ。

 

そろそろ手が悴んできたので筆ならぬスマートフォンをもう置こうと思う。

 

人生、幸福な時より不幸な時の方がだいたいの人は多いし、どれだけ頑張っても死んだら全てパァということ関していえば全人類平等。

この世界は運が支配していて決して平等じゃないけど唯一平等なのは死んだら全てパァになるということで、ビルゲイツも死刑囚も本質的な意味での終着点は全く同じだということ。

私たちはペットも神も擬人化し過ぎていてこれは正さねばならない。爆弾がいきなり降ってきて子供が死ぬ世界に神がいるわけがないなどという言葉を聞くが、逆に私はその事実にこそ神の存在を最も感じる。遠藤周作風にいえば別に神という言葉を使わなくてもいい。それはトマトでも椅子でも自然でもいいのだけれど、トマトは我々に関知しない。

 

そう思うとみんな人生なんて生きる意味ないじゃないかと言うかもしれないが、その事実を受け入れさえすれば我々命を有するものたちが生涯で体験することは何もかも不条理でこれが自然なのだと思えば死にたくなるぐらい辛くはならない。妻が他の男と寝るのも、友達が1人もいなくても、いきなり会社をクビになるのも、明日突然死ぬのもこの生の世界においては自然なことだと思う。

私は死が突然迎えにくるその日まで時に適当に時に必死に生きようと思う。しかし口で言うのは簡単だが修行もしてない若輩者の私にそんなこと簡単に実践できるわけはない。

 

ご覧のように私は妙なところで思想が強いのもまた欠点、このブログを楽しんでいく中でまた考えもがらりと変わるだろうし、みなさんに是非変えていただきたい。

これで明日死んでもいい、そう思えるブログにしたい。