友人と久々に遊ぶことになり、彼の仕事の都合で一泊の願いは叶わず日帰りで出かけることとなりこの駅に白羽の矢が立った。
私たちは日中は骨董市を巡り日が沈んでから車を走らせた。
秩父へ入り途中で手洗いのため車外へ出ると刺すような冷気に気絶しそうになった。今年はやけに暑い日が多かったがやはり師走なんだなと思った。
地元の人しか利用していなさそうな脇道へ入ると白久駅が見えた。下と同様やはり痛いぐらいに寒かった。
時間は21時、もう辺りは暗闇に包まれ、出歩く人もいない。友人と温かい飲み物を自動販売機で買いそれを手にぎゅっと握りしめて次の電車を待った。
幸いなことに10分ほど待ってその電車はやって来た。電車からは少年が一人慣れた様子で降りて来てすぐに暗闇へ消えた。おそらくこの地元の少年だろう。便利な生活とはお世辞にも言えないだろう。あの少年は日常的にこの電車を使っているのだろうか。一人この小さな電車に揺られこの無人駅で降りる、その時に何を彼は思うのだろうか。そんなことを考えているうちに電車は我々を全く認知せずすぐに発車していった。
寒いし明日は仕事だからそろそろ行こうかと友人が缶コーヒーを啜りながら言った。そうだなと私は答えた。
帰りにラーメンでも食おうと私が提案すると、それは素晴らしいねと彼が言ってくれて私は幸福を感じた。
傍に置かれた公衆電話の光が暗闇の中に一人その存在を主張する。それを見ていたら宮沢賢治の『春と修羅』にあるこの序文が頭を過った。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
この公衆電話を見るものは今私たちしかいない。私たちが去った後もその公衆電話は一人自らの居場所を誰に見せるでもなくコウコウと光って主張し続ける。ふと私は大事な人にその公衆電話から電話を掛けたくなった。
駅の近くには旅館がある。
今度は一人で電車でここに来てその宿に泊まろう。そしてこの町を散歩しよう。そう思った。