友人と渓流釣りへ行った時の記録。
2人で山梨へ、私はテンカラで友人はルアー、擬似餌で魚を釣り上げたことのない私たちはそもそもこんなオモチャで釣れるのか懐疑的だったことをよく憶えている。長い竿を持って事前に狙っていたポイントを歩いて目指す。人が誰もいない山を歩き出してすぐ友人がピャッとキョンのような声を上げた。
靴の上を動くこの生き物の正体はすぐに分かった。ズボンを捲り上げるとさらに2匹もヤマビルが友人の汚らしく毛の生えた足に幸せそうに吸い付いている。
前日に雨が降り落ち葉は水に濡れている。嫌な予感しかしなかったが、釣りにわざわざ遠くから来たのだ、そのまま意を決して進むことにした。
すると歩き出して15秒で気付いた。ここはヒルの山だ、と。立ち止まって屈み込む。半径1メートルを見回すと我々の存在を感知したヤマビルくんたちがブンブン頭を振ってラブコールをしている。幸いなことにウェーダーを履いていた私はそれほど困らなかったが、友人はウェーダーを持っておらず履き古したスニーカーのみ、もはや笑いが込み上げてくる。
結局このポイントは私たちの間違いでどれだけ行っても川などなく、ただ30分も歩いて無数のヤマビルにキスされただけで終わった。阿呆としかいえない。
車を走らせポイントを変える。
良いところを見つけ入渓する。友人はベトナム帰りの兵隊のようにヒルの幻影に怯えている。
ルアーの友人が私より先に川へオモチャを投げた。すると驚くことに一投目で美しいイワナが顔を出した。
私は途端に焦燥に駆られ仕掛けを急いで作った。友人の頭からはヤマビルのことなど消え、私たちは一日釣りに夢中になった。
結果、友人が計3匹(当たり多数)、私が0匹(当たり0)でその日の釣りは終わった。和竿を畳む私に友人が声を掛けた。「その竹竿売ってさ、軽いカーボンのルアー竿買おうよ」と。結局その日、私はお洒落な写真を撮影しただけで終わった。私は何事も見た目から入る派なのだ。
……ヘトヘトになった私たちは宿を目指した。今日の宿は身延町八坂にある『天空採園』、前からずっと泊まりたかった宿だ。
宿に着くと辺りは真っ暗で虫の鳴き声しか聞こえない。僅かな街灯が今日の宿の姿を朧げに映し出す。一目見て当たりだと思った。
宿の御主人が遅くに着いた私たちを暖かい笑顔で迎えてくれた。御主人は電話口からとにかく優しくて私たちは安心して宿に向かえた。こういう宿は良い宿だ。
腹がとにかく空いていた私たちはさっそく調理に取り掛かった。その日の夕食は、白米、七輪で焼いた川魚と椎茸、春菊のお浸し、缶ビールで、我々の疲れ果てた身体を癒した(七輪に張り付いて魚はバラけたがそれも御愛嬌)
日々の労働と運転と釣りで疲れ果てていた友人は飯を食い終わると泥のように眠り出した。ヤマビルと愛し合ったのだからせめて風呂に入れと言ったが一向に起きずムニャムニャ言ってるだけなので可哀想になり放っておくことにした。
それから私は一人夜の庭を歩いた。すると近くで鳥が激しく羽ばたいた。軒下に鳥籠が数個下げられていて覗き込んだが動く暗い影しか見えなかった。
煙草に火をつけると1匹の蛍が小さく闇をぽっと照らす。目を閉じて暗闇と、そして山と一体になる。ずっとこのままであって欲しい。美しい場所だ。
歯を磨いて布団に包まった。夜の森にカッコーン……カッコーン……と何やら奇妙な電子音のようなものが絶え間なく響いているのに気付いた。私はそれを耳にして些か不安な心持ちで眠りに落ちた。
朝起きると快晴だった。
御主人は炭焼きでどこにもいなかった。友人と晴れた山を眺めながら煙草を呑む。昨夜静かにしていた犬たちが私たちに激しく吠えた。蔵にはスズメバチの残したぼろぼろの巣がいくつも下がっている。
宿のすぐ下には八坂にかつてあった宿が廃墟としてそのまま朽ちながら残っていた。私は友人と2人でその廃墟をぼおっと眺めた。
私たちは支度をだらだらやって終えると机に分かるように金を置いた。それからまた来ようと誓って八坂を後にした。