The Cuckoo's Nest

幽遊自躑に暮らしております。https://twitter.com/Wintermoth1934

駄文4

人の幸福の数と不幸の数は最終的には同じといったような茶番にはうんざりする。決してこれは数値化できる問題ではないが、娘が強姦され殺された親の一生と何不自由なく経済的にも容姿にも恵まれた男の一生、これらの幸福の度合いが同じなわけがない。

幸福か不幸かなどという問題は大体は産まれもった偶然の性格、幼少期の体験、家庭環境で決まる。この手の話に造詣の深い友人が以前言っていたが、人の一生付きまとう性格というものは、おおよそ小学生2年〜4年までに決まるそうだ。簡単に言えば、子供が宿題をやらず後回し癖が付きそうなものなら、あるいは友達に頼って自分だけ楽をしようとしていたら、その精神の鉄を熱いうちにぶっ叩かなくてはならない。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだが、実際は三つ子ならまだ修正が効くらしい。この話が本当なら全世界の親たちはその決められた期間に子供の人格をより良くしようと全身全霊で教育に励まねばならぬだろう。

人生において最も重要な問題は、幸福か不幸であるか。他人がどう言おうと本人にとって幸福であったと総決算できる人生なら良い人生だろう。しかし愉快なことにその極めて大きな生きる価値そのものにも直結する問題は、おおよそ運一つで決まる。

要は気の持ちようだなどという言葉があるが、これは全く正しい。しかし運に恵まれてなければその気を持つことは叶わない。例えば、最愛の恋人が他の男と寝ている現場を目撃したとしよう。一人の男は確かに辛いが立ち直って歩き出し新たな女性と再スタートを切ることができる。そりゃあ時折そのことを思い出すこともあるが、昔のことだ自分も若く未熟だったと片付ける。一方の男は違う。ショックのあまり家に帰りショットガンを持ち女に何発も銃弾をぶち込むか、あるいは自分の口に銃口を突き刺して神を呪って引き金を引く。この違いは何だ?そいつの心の問題、要は気の持ちようだ。だが、その気というは何が決める?

運? 運というやつは人に神と呼ばれるような形而上学的な存在が決めるのか? 果たして澳門のルーレットのような自然による無作為の選択なのか?

不幸な者の実態や気持ちを幸福な者は決して理解することはできない。大昔から人はどれだけ進歩しても実体験でない限り他者の気持ちは真に理解することはできないのだ。理解した気分になって安心しているに過ぎない。精神科医の話は役に立たず唯一有益なのは薬だけで、医者共と自殺志願者たちの気持ちが決して一致しない理由もここにある。戦争を体験していない若者が9条の存続を切に唱える高齢者を老害の一言で嘲ることほど滑稽なものはない。

神の存在について考えることがよくある。神というとまるでそういう個体があるように思えるが、私は神=自然が現在最も近いと思っている。つまり神とはテントウムシがアブラムシを罪悪感なく食べることそのものなのだ。宙を舞う羽虫を捕食するアマゴそのものなのだ。豚が食われるために産まれることそのものなのだ。

利己的な遺伝子』だったかな、確かそんなことが書いてた気がするが、もし我々の考えるような人間的な性質を持つ神があるとしたら、生き物は自身の延命のために捕食する際、相手に痛みや苦痛を与えないため麻酔のようなものを毎度行う筈である。蜘蛛に生きたまま溶かされ捕食される昆虫の気持ちを諸君は考えたことがあるか。彼らは高度な感情はないが、死を感じるだろうし、恐怖の感情は我々と同等に持っているだろう。彼らが生かされたまま溶かされ飲まれる時の気分は、恐ろしいなどという生半可な言葉で回答できはしない。しかし生き物の誰一人そんなことはしない。麻酔してる連中は捕食するのに便利だからで倫理的な配慮ではない。

ヴィーガンを一度目指したこともあるが、これは確かに人道的な行いだと思う。しかし神はそのような行いを決して望まず、結局のところヴィーガンのそういった行いすら神の掌の上で踊らされてるに過ぎない。私はそれをしてる自分を神が大笑いしている気がしてできないのだ。

全ては茶番だ。盛んに唱えられる人生は素晴らしいといった文句にはうんざりする。素晴らしく、それでいて素晴らしくもないが正しいだろう。良いとか悪いとかそういう次元に生命は決してない。生命としての役目もない。どうせ将来必ず終わりを迎える生命だ。どれだけ輝かせようと暇潰しの域を出ず、茶番と言わざるを得ない。

私は戦争を望まないが、死と隣り合わせの生活はどんなものだろうかと時折夢想する。我々の生活には死がない。明日死ぬと宣告された癌患者が病院へ行くため駅のホームに立つ気持ちを、景色を、我々は決して知ることはないのだから。その気持ちを思うと私は目玉を抉り出したくなる。