The Cuckoo's Nest

幽遊自躑に暮らしております。https://twitter.com/Wintermoth1934

気分

人の気分ほど良い加減なものはない。

もう死のう何を使ってどこで首を吊るのが適当かと考えていた者がある電話一つでスッキリサッパリしてしまうこともあれば、またその逆に有頂天になっている時にある電話一つでもう死のう何を使ってどこで首を吊るのが適当かと考えてしまうこともある。

朝起きて何だか今日は良い感じだ具合が良い、今日は気分良く過ごせそうだなどと期待して一日を始めるともうあとは悲惨だ。別に何かあったわけでもない。壁を這う1匹のヤモリを目撃したとか道行く聡明そうな美女を目撃したとか、あるいは職場で先輩に仕事を懇切丁寧にご教授して頂いたとか、外で昼食を食べていたらコンクリートの割れ目からタンポポが生えていたとか、そういう要因で急に嫌な気分になってしまう。一度嫌な気分が始まるとそれは導火線に火が付いたようなもので目標の爆発に向けてただ走るのみ。爆発が死だとするならこの導火線は愉快なことに死に向かってどんどん走るけども決して爆発はさせない。寸前のところで止まってあとは少し戻ったり留まったり、それ以上先は決して進まないのだ。しかし我々はやはり爆発するのではないかと思っている。

私は気分の良し悪しというものをどうも信用できない。こいつを信じ切って予想通りだったことは数少ないからだ。

何かを理由にして気分が左右されるという考えよりもいつもサイコロが転がされているイメージの方が近い。しかもこのサイコロの出目は何故か平等にできていないのだ。例えば健康な人であれば6(大変良い気分)5.4(良い気分)3.2(普通)1(不愉快)であったりする。一方、私であれば推測に過ぎないが、6(やや良い気分)5(普通)4.3(不愉快)2.1(大変悪い気分)といったところか。

人という生き物はこのサイコロが一日中転がされている。されている、と書くのは、これは我々の意志でないからだ。何か良いことがあった時良い気分を期待するのは、あくまでサイコロが振られた時の確率に影響を与えるからに過ぎない。それは所謂ゲームなどにあるラッキーチャンスというようなところで、場合によっては何か良いことがあっても気分は良くならない。確率が低いだけなので運悪く最悪の目を引いてしまったら良いことに恵まれても気分が悪くなることだってありうるのだ。

人の気分とはこのように実に良い加減なものである。だが私たちはそのサイコロで良い目が出ることを祈り続けて一生を生きていくのだ。他の生物はこんなことを祈らない。実に人の生とは儚いものだと思わないだろうか。