The Cuckoo's Nest

幽遊自躑に暮らしております。https://twitter.com/Wintermoth1934

ある老人の目覚め

男は大手企業の新入社員で周りからも期待されている。彼の両親は他の世の良識のある親達と同様彼をこの世で最も愛していて、この子の幸福のためなら命を瞬時に捨てることもできる。彼には学生時代から交際している優しく美しい恋人がいてじきに結婚を申し込む予定だ。恥ずかしながら親友とも呼べるような友人も数人いて、生きる糧となる趣味もある。ただ彼には人格的な欠点があった。人よりエゴが強く、臆病で、そして怠惰であった。

目が覚める。

どうやら昔の夢を見ていたらしい。老人は眠っている時が最も幸せだった。

老人は煙草の火で所々焼けた黄ばんだ畳の上で横たわっている。目は虚で斜視ではないがどこを見ているでもない。部屋はカーテンで閉め切っていて日中にも関わらず薄暗い。辺りにはスーパーで一番安くアルコールの度数ばかり高い焼酎の瓶が転がっている。室内はどこか糞尿のような臭いが立ち込めており、積まれたゴミ袋の周囲には小蝿が舞っている。ゴミ袋の下には蝿の蛹の抜け殻があることから、この一室で蝿が産まれその生涯を過ごしさらに子を残し死に至っていることが推察された。もう遠に盛りの時期は過ぎたであろうに枕元には穢れたティッシュが転がってることからどうやら滑稽なことにそっちの方はまだ健在らしい。老人は口の端から粘着性のある唾液を垂らしながら、酸素を欲する金魚のように口をパクつかせ何やら呟いている。声が小さくて近寄らないと聞こえない。思い切って近寄ってみる。

「俺は……俺は……俺は……」

それを聞いた時、私は思わずプハッと吹き出してしまった。だってこれだけ痛い思いをしてきたのに最後の最後まで自分の過ちにまだ気付けていないのだから。そもそも私がここに来た理由。一思いにここで殺してやろうかとも思ったが、そんな考えは瞬時に消えた。長生きさせてやろう。誰よりもこの老人を長生きさせてやろう。病気にはさせても決して死に至る程のものではなく、意識もハッキリさせておこう。そうと決まると私はその一室を後にした。最後に彼の方を一目見たが、やはりプハッと炭酸を開けた時のような笑いがもう一度吹き出すだけだった。