The Cuckoo's Nest

幽遊自躑に暮らしております。https://twitter.com/Wintermoth1934

高尾山で見た赤い首

あの日、私は高尾山を登った。友人とイボタガという実に美しい羽模様をした蛾を見に行ったのだ。登る途中とても耐えられなくなって吐いてしまった。私はその瞬間嘘偽りなく死んでしまいそうだったのだ。死ねという言葉が脳に響き渡り消えるところを知らなかった。

私たちは山頂の寺に入った。入る時、仁王様と目が合った。真夜中の寺は荘厳で異界に迷い込んだような心持ちになり私は些か救われた気がした。歩き進むと境内の石階段に赤い首が落ちていた。よく見ると真紅の椿だった。その椿は綺麗に一つだけ階段の真ん中に落ちて静止していた。すると連れの友人が言った。

「椿は縁起が悪いと言うよな。花弁が少しずつとかではなく、いきなりボトッと落ちるから」

その性質もそうだが、彼岸花といい真紅の花はどうも縁起が悪いと言われることが多いように思う。彼は続けて、昔読んだ『地獄堂霊界通信』という本に椿の不気味な話があったことを言って、やたらそれが印象深く以来椿を見るとどうもその話とコネクトしてしまうらしい。

そう言う彼だが彼は椿が好きだ。私も彼岸花、椿、菊、牡丹など、東洋世界的な死の雰囲気を持つ草花が昔から好きだ。以前、芥川龍之介の『鴉片』という短い話を読んだ。その中で彼はアヘンは西洋的か東洋的かという話をしていて、やはり自分は東洋的だと思うとした。アヘンの持つ東洋的な死の雰囲気を説明する上で、青々の「初冬や谷中やなかあたりの墓の菊」という句を引用している。その見事な幕の閉じ方は芥川の天才振りを伺わせた。

話を戻すが、椿は同時に縁起の良い植物ともされてきたのを知っているだろうか。椿は縁起の良さと悪さの二面性を持つ。椿に限らずこの手の類にそういう二面性を持つものは多い。私はこの人の世の性質がまさにこの椿の件と表れてると思う。振り返るとさっきの赤い首は同じ位置で先ほどと寸分違わない形で静座している。それから奥へ進もうとすると私の心臓はまた死を求め激しく波打ち出した。私の内側では一人の大人の男が気狂いのように暴れて大泣きしながら辺りのものを破壊して助けて助けてと大絶叫しているのに、外側の私は落ち着いて冷ました顔をしているのだから実に人とは不思議で気持ちの悪い生き物だと再確認した。

高尾山からの夜景は実に綺麗だ。サンテグジュペリだったかな、あの光一つ一つにかけがえの無い人生があるなどと言っていたがまさにそれだ。足元には一匹のツチハンミョウがいた。友人に映画『ジョーカー』の精神科医の話をしたら、彼が愉快な話をしてくれた。『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』に出てくる精神科医が医者を辞めるそうなのだがその理由が「この人たち(患者たち)は私がいてもいなくても変わらないから」なのだそうだ。

美しい夜景を前にして足元ばかり見ながら彼に言った。俺は今こんなだけれど結局お前も俺も同じところ(死)に落ち着く、それについてどう思うか、と。すると彼が、それでも自分は死ぬ時に良い人生だったと思って死にたいしそのために努力していると言った。それに私はこう返した。俺もずっとそう思っていたがそれはそんなに重要なことではないのかとも思っている。実際のところ結局同じ威力を持った死が等しく訪れるなら最後の瞬間にどう振り返ろうと何も違いはないのでないか。そんな話を適当にして二人で笑った。それから山を降りた。私の汚物はまだ残ってるかなと言ったら、さっき見たハクビシンが食って今頃精神安定剤でまったりしているよと彼は言った。

そうだ、私たちは適当に話をしているのだ。これらの他愛のない話は何よりも私の心を軽くしてくれる。「自殺だけはしちゃダメだ!それだけは絶対にダメだ!お前が大事なんだ!」などという言葉よりよっぽど私を死から遠ざけてくれるのだ。