The Cuckoo's Nest

幽遊自躑に暮らしております。https://twitter.com/Wintermoth1934

躁鬱病分析

私には鬱がある。想えば幼少の時分から鬱病の気はあったが、開花したのは高一、高二の時分であろう。あの頃は自分が世界で一番嫌いでカス同然だと思い、同時に矛盾して親しみのない他人を皆自分以下だと思っていた。(今もか?)

そんな私だが、最近になって躁鬱病なのではないかという気がしている。勝手にそんな気がしているだけでなく人に指摘もされた。言われてんまあ確かにとは思ったが実際の所どうなのだろう。抑鬱は確実にある。しかし所謂躁状態というのは本当に私にあるのか。

知人に2人躁鬱病の人がいる。一人が言うには躁状態の時には、外にでも出ようものならあまりの風の心地良さに咽び泣きそうになり葉の緑や空の青を見てその美しさに身震いがし生まれてきて良かったと強く感じると言っていた。凄い。さながらLSDだが、症例として他の人でも類似したものを見たことがある。

またもう一人は躁状態の時には人を殺したくなるという。普段は温厚で誰よりも優しい人なのだが、躁状態では時に素手で人を思い切り殴り殺したくなって堪らなくなってしまうそうだ。このタイプの躁状態は下手すると逮捕されてしまうから本人も大変だ。他にも、インターネットや本などを見ると、躁状態で急に企業しようと思い立ちその場で様々な高額の契約をしてしまったり、などなど人の数だけ色々聞く。

そこで、そういうものが私にあるだろうかと思った。良いとこ機嫌が異様に良いだけの詰まるところただの気分屋、病的な程まではいかないのではないか。私のような者が躁鬱病を名乗ったら世の本当の人たちに申し訳ないのではないかと思った。

と、そのことを親しい友人に語ったら、いやお前スーツ買うじゃんと一蹴されてしまった。確かに言われてみるといくら服に注ぎ込んでるんだ私は。

同好の友人にも流石に金遣いの荒さに引かれたのか純粋な心配をされたことがある。冬尺くん、〇〇円以上は危険だよ。大丈夫大丈夫、口座も見てるし一文無しになるようなそういうヤバい使い方はしないって。俺の先輩なんて実家暮らしで貯金0だからね? 俺なりにね、ちゃんと一線超えないようにしてるんだ!

いや、本当だろうか?お前は本当にそんな線引きができているのか。間違った位置に線を引いてそれを正解だと自己採点で思い込んでるのではないか。

いや、やはり躁鬱病の可能性も高いんじゃないですかね……

私がアメリカ人だったら

アメリカに産まれたかった

子供の時分からよくそう思った

俺が不幸なのはこの国のせいなんじゃないかって、根拠なんて特になく国のせいにしていた

母国語が英語だったら他の国にも気軽に住めるしそれで幾らでもやり直しが効く

糞みたいな固定観念なのは分かってるがアメリカ人は陽気で裏表が少ない人種なんだろ?そんなことテキトーに思って憧れてたが今は違う

拳銃が欲しい

拳銃が手に入るから

自身の口に銃口を突き刺して小便漏らすほど恐怖してカタカタと歯を銃口に当てて音を鳴らしたい

実際に引き金を引くかなんてどうでもいいことだ

安全装置を外して万が一指の震えで、気の迷いで引き金を引いちまったら脳髄がぶち撒けられる、その可能性を作りたい

そんなことできたらさぞ気分が良いんだろう

万が一引き金を引いちまったらそれで仕方ないし、糞便垂れ流し終わった後で銃口を抜いたらそれはそれでさぞスッキリするだろう(糞が出たからスッキリしたって意味ではない)

自分が今死んでたかもしれないって状況で生きてそれを観測するのは最高の快感だろう

この国で同じイリーガルな物でもドラッグなら犬ですら覚えさせれば買いに行けるが拳銃となるとそうはいかない

俺もバレット・バレエの塚本晋也みたいに必死になるか?

アメリカ人は幸せだなぁ、いいなぁ拳銃と思う今日この頃です

私の性分について

人と集まると毎度のことながら、嗚呼またやってしまった!と思う。この嗚呼またやってしまった!がどういうことかと言うと私が偉そうにお喋りをし過ぎる、これに尽きる。

現実の知り合いなら誰もが納得するであろうが、私ほどよく喋る人はそういない。私は自分があまりにお喋り過ぎるのでお喋りな人とは相性が非常に悪く、まあ俗に言う同属嫌悪というやつだろうか。私は生来のお喋りで人によっては喧しく不快に思って私と到底親しくできない者もあろう。しかし意外なことにお喋りとの指摘は幾度も受けどそれを理由に縁を切られた経験はないのだからこれは奇跡と言って良い。いやはや有難い話である。このブログもお喋りの悪化と思うとまた納得するものがあって滑稽極まりない。

このお喋りは完全に母親譲りで、母も私が頭を痛くする程に一緒にいるだけ永久に喋っている。あんまりしつこく話すものだから次第に脳がチクチクしてきて離脱せざるを得ないこともある。それも同じことを繰り返しずっと話し、話し方にも抑揚をとにかくつけたがるので凄まじいものがある。それを幼少より身近で体験していてウンザリするが、どうやら私も母ほどではないが近いものがあるらしい。結局蛙の子は蛙ということだ。

話を戻すと、私は人と集まるとついその場を仕切ってお喋りを始めてしまう悪癖がある。元々沈黙が苦手ではあるが、いやいや単にお喋りが好きなのだろう。親友の一人からは私がエピソードを語ってなんかいると途中で「いつその話終わる?」と冷やかす者もあるくらいで、彼曰くお前以外にこの言葉を使ったがないとのことだが尤も至極である。

さて、今日も今日とて同じ過ちを繰り返してしまったわけだ。皆の視線を一身に集めて、さあこれから面白いことを話すから心して聞けよとついやってしまう。それも一度きりではなく何度もだ。そんなお喋りが得意なら司会業でもやったらどうかと思うかもしれないが、実は極度のあがり症で事前に決められて話すことは大の苦手なのである。

いつも不思議に思うが、この臆病で矮小な私からどうして場を仕切るような大きな自信が現れるのだろう。普通の人ならそんな自信は湧き起こらない筈だ。何だか私は頭が単におかしくて、皆さんが大変良い人たちばかりだからそれに付き合ってくれてるんじゃないかしらとも思ってしまうのである。それか躁鬱病か何かだと思われいて(実際そうかもしれないと疑っている)あゝまた冬尺さんのアレ始まったよぐらいに軽く流されてしまってるのかもしれない。

あまりに口を動かし過ぎて食事の進みは遅いし時折自分で喋り過ぎて呼吸が荒くなっていることを自覚し流石に苦笑する。おまけに人の話を聞くのは大の苦手で、たまに人が少し話せばそれに対し5倍は意見する。これはもはや長所などではなく気狂いではなかろうか。稀に自分の話してる様子を音声なんかで聞くと、これはまるでコメディアンだなと思う。妙な格好のピエロか何か、滑稽でそういう騒がしい玩具のよう。

こんな性分ながら毎度やってしまったなと一応反省はするのだ。声がデカくとにかく場を仕切りたがるだけで実際碌なことを話していない。尤もらしく勢いで誤魔化す能力は高いかもしらん。感情ばかりで論理がまるでない。おまけに嫉妬深く種々の欲が人一倍強くそれでいて自分を責めることだけはこうして大層得意である。酒なんか大勢で飲んで急に一人になると本当に自分が塵芥同然ではないかと思うのだ。結局のところこういう文章を残して、自覚があり反省する気もあったことを後世に残すことでしか償いができないと思っている辺り終わっている。それでいてやはり「いや、あなたは自分が思っているような悪い人じゃありませんよ」の一言を喉から手が出るほど心待ちにしてるんだから気色の悪いことはない。

沢蟹

一周忌の墓参りを終えた帰り

突然クシャッと足元で何かが爆ぜた

靴を上げると大きな沢蟹が潰れていた

横には小さな水路が流れていたのでそこに居着いていたのか

屈み込み蟹を見つめて1か0か考える

蟹は0であった

私が殺したのか、それとも死んでいたのか

崩れた殻から漏れ出す液体は生々しく

仮に死んでいたにしても時は経ってない

しかし生きたカニなら避ける程度のこと造作もない筈

いや、それは私の思い違いか

彼らは私達が思ってる以上に間抜けかも分からないぞ

私は明後日の方向を向いた蟹の手足を指でつついたり引っ張ったりし反応を見た

すると蟹の指が微かに動いた気がした

いや、ただ物理学の問題で生じただけのものか

母が私を呼ぶ

私は母の背に向かって走る

駆けながら私は分かった

私の考えるべきことは、あの蟹をどこに埋葬してやるのが幸いであったか

唯その一つだけだったのだ

蟹のある方を振り返ったが

私は再び蟹の元へ戻らなかった

一匹の黒い雄犬の死

今、時刻は朝の五時、私の目の前で消えかけの蝋燭が燃えている。

この蝋燭は犬の祭壇に設けられたもので、珍しく早々に眠り落ちた私だったが、明け方に目が覚めてからこれを眺めている。かなり長い一本であったが、間も無く消える。これを書いている間に消えるだろう。消えたらまた別の一本を立てれば良い。しかしあの犬の代わりは立てられない。寝ずの番という訳には行かなかったが今日は彼の横に布団を敷いて寝た。いくつも関係ない夢を見たが、その中で一度彼の声を聞いた。

昨日のちょうど今頃あの犬は死んだ。医者に今日か明日が山だと言われたが、明後日までは生きたのだ。食べないと聞いていた私の前で流動食も食べ希望が湧いた。

危篤と言われそこから一年も二年も生きる人はごまんといる。私は二日目の24時を過ぎた時点で改めてそう思った。この犬も同じだと。しかしどこか苦しそうな声を寝ている時以外に出すようになり触るとお腹が張っていた。三日目(昨日)の真夜中には嘔吐、吐いて楽になったように見えた。その時、私はすでに胃が流動食でさえ受け付けないようになっていることが分かり嫌な予感がした。

母が席を外している間に私は横になっているだけの犬の目をじっと見た。これほど彼と真剣に向き合ったことは今までなかった。私はかつてない妙な気分になった。彼の一本の線の上に少しだけ私を重ねさせてくれた気がした。私は感謝の言葉を口にし、もう休めよと言った。

それから、また明日なと伝え、心配な母は犬を横に置いて寝た。私はどうも眠れず黒澤明の『白痴』の続きを観終えてから睡眠薬を3錠飲んで寝た。そして1時間半ぐらい経った頃、母の声で目が覚めた。

「死んじゃったかも」

そう言った。かも?私はそう思った。ということはまだ分からないのか。とにかく私は起きて犬の置かれた脱衣所に行った。犬は動かなくなっていた。夏に見る木に止まった蝉の抜け殻と同じになっていた。私は悟った。

それから父を起こしに行った。父が涙するのを初めて見た。母曰く、呻き声で目が覚め掛けてあった布団を捲るとずっとしていなかった糞をしており掃除のため席を外したその数分の間に息を引き取ったとのことだった。汚れた体を綺麗にしてやって、それから用意してあった発泡スチロールの棺に納めた。母は死の瞬間隣にいてやれなかったことを一日悔いている風であった。

私は涙が出なかった。父も母も泣いていた。私は1時間半しか寝ていないから脳が鈍っているせいにした。薬が効いているせいにした。しかし私は今日も涙が出なかった。ただ風呂やトイレから家族のいる部屋に帰ってくると、父の腹の上でいつものように寝ている気がした。

今目の前の蝋燭が消えた。消える瞬間を見た。激しく燃えていたが、ゆっくり小さくなることもなく、ぱっと手品のように消えた。

気持ちの整理がつかないのか。それとも私が死に対して、いや、この犬に対して無感動になっているのか分からない。この犬と離れてから時間がかなり経ち、新たに猫と暮らし始め、情が薄れていたことは紛れもない事実だ。だが、やはり私の人生において最も重要な時期にこの犬はいた。私はひどく辛いことがあっても彼のニオイを嗅ぐと心が落ち着いた。19歳、ずっと当たり前のようにいる気がしていた。

私は彼と会った日のことを今でも思い出すことができる。彼はケージの中に入れられていて、手を入れた私の指を容赦なく噛んだ。私が二匹いる中から彼を選び車の中で名前を付けた。よく噛む犬だった。今なら思う。もう一度、血が出るぐらいに、その歯形が私の肉に刻まれる程、強く噛んで欲しいと。今ようやく涙が出た。

ありがとう、月並みだがこの言葉に勝るものはいつの世もない。

自殺について

カミュが以前このようなことを書いていた。結局のところ人生で最も重大なことは一つ、それは自殺するかどうかだ、と。

自殺について考えることは私の日常だ。私にとってサラリーマンが仕事から帰ってきて呑む一本の缶ビールぐらい日常的だ。

別にそれは何も私が大きな希死念慮を持っているというわけではなく、まあ確かに時に本気で死を熱望することもあるが、そんなのは一過性の大爆発に過ぎず幸福なことが舞い込めばまたすぅーと死から離れてしまう。私はそんな薄情な奴なのだ。なので私は大体において自殺についてあれやこれやと考えているだけだ。暇つぶしなのだ。

その暇つぶしをしてると思う。私は自分が自殺する気だけはどうもしないのだ。そう妙な確信がある。昔からある。自殺するのであれば廃人になって生きる方が私らしいとも思うが、何やかんや私は狂ったりもしないだろうという確信も同時にまたあるのだ。

私は時に大き過ぎる絶望を欲する。私はまだ真の絶望というものを味わったことがない。人を殺して逮捕されたり、信用していた最愛の恋人が他の男と寝ていたり、自分の子供が首を吊って自殺したり……そういう稲妻に打たれたような体験が私にはない。私は私からすれば不幸に違いないが、人から見れば時に羨まれる程には幸福なのだ。不条理の稲妻に打たれた時、私は自分の心がどう動くのか、それを知りたい。それほどのことがあればやはり自殺を選択するのか、それとも理性を失わず今まで通り生きていくのか。結局のところ激しい絶望を味わったことがない者など自分のことを分かったとは決していえないではないか。私は私のことをまだ何も知らないのだ。私はいつまでも蝶の蛹の中のドロドロしたあの生命の液体だ。

私の人生哲学というとそれほど立派なものではないが、人生とは、いや生きることとは基本的に苦しいものである。そこで「生きることは苦しい=生きるだけ無駄、故に死のう」とは私は決してならないのだ。人生は苦痛が大半だし、しかも生きていれば必ず死に全て意味がなくなる。だからこそ逆に生きようと思える。どうせ死ぬなら今この瞬間も私は死んでるのと同じだから死ぬ意味もないというのが私の考えだ。

……いや、改めて考えたらそんな大層なものじゃないな。怠惰なだけだ。単に私は怠惰なだけなのだ。何も格好つけることはない。そうか、そっちの方がよっぽど真実だ。

危篤

今うちの愛犬が死に掛かっている。

この黒い雄犬は19年も生きている。

ようやく19歳を迎えたが、一ニ週間程前に母から今まであった食欲が格段に落ちたとの報があり覚悟するよう伝えられていた。

そして今日、自宅にて母から彼の危篤の報を受け急遽郷へ帰ることを決意、今新幹線の中でこれを書き綴っている。

今の心境を書き表すことは難しい。彼は十分過ぎるほど長生きした。だから早死や予期せぬ死に対して起こるような強い悲哀の情はない。

私は意外にも落ち着いている。理性で解釈していてもこのような状況になった時おそらく強く動揺し落涙もあるだろうとずっと思っていたが、今はまだそうなってない。

彼がまだ生きているからか?

危篤の状態はやはり生きているのだ。生と死の間の壁はあまりに厚く決して互いが混ざり合うことはない。だから私の中で彼は今までと変わらず生きているのだ。いくら危篤とはいえ彼は生きている。確かに存在している。消え掛かり豆粒程に小さくなった蝋燭の炎も暗闇の中にあれば辺りを十分に明るくする。遠くから見てもハッキリその存在が認められる。

まだ彼の周りはぽっと明るく暖かい。彼はこの世界を確かに暖めている。まだ私は遠くにいるが、確かに彼が放つその暖かい安らぎの美しい炎を認めている。