言葉の無力さを日々感じている。
この言葉というのは口から発する音ではなく、例えばこのブログのように文字に起こすこと、文章に書き表せるようなものを全て指している。
言葉にすることは、内のものを外に出すために変換する作業だと思う。
私の能力が低いことも無論あるのだろうが、どれだけ頭を捻って産み出した言葉も内にある自分が感じているものをどれだけ現し出せているかといったら全然できていない。時折ポンと奇跡のように降ってきた言葉もおそらく75%ぐらいだろうか(言い過ぎかな)どれだけ高性能なカメラも人が実際に見たのに敵わないのと同じことが言葉にもいえるのではないか。
この点、小説をはじめ多くの文学の形態は弱い気がしていて、詩や絵、音楽は強いと思う。詩や絵、音楽の効果は人間の極めて複雑怪奇な感情を外に吐き出すのに適している。
このようなことを考えながら時折町などで見かける態度の悪い下品で乱暴な人を見ると見え方が違ってくる。自分自身をその人だと置き換える。その人の内にあるものはその人にとって何より壮大で不可侵で決して誰にも劣るものではないのに、その人を見た人は、その人を哀れみ見下し蔑む。ああはなりたくないと、自分も大した人間ではないがあの人よりはずっとずっとマシだと。
どんな凶悪な人間の人生も聖人の人生と本質的には何一つ違いはないのではないか。人生に点数や価値を付けることがそもそもナンセンスで、この世の全ては死と生の二つしかなく、全て尊くて全て意味がない。シェイクスピアがマクベスで「きれいは汚い、汚いはきれい」と書いていたが、生とは常にこのような矛盾したものだろう。
何らかの奇跡でこうして私たちは産まれてしまった以上ただ生を享受するしかない。唯それだけだろう。
思うままに筆を取り(実際はアイポン)駄文を書いてしまい失礼いたしました。インターネットとは良いものですね。